Opalpearlmoon

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レオンハルトはかく語りき

 
 
 
 
それは、『ツァラトゥストラはかく語りき』というタイトルだった。
「レオンさんの愛読書みたいだからさ、興味を持って、買ってみたんだ。わりとおもしろいけど、今のところレオンさんがどこに惹かれているのかは、まだ不明」
                                        ビーズログ文庫『銀のメサイア
 
 
 
ビーズログ版『銀のメサイア』に、聖樹くんは『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んでいる、という記述があります。
この『ツァラトゥストラはかく語りき』、作者は「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」でお馴染みのドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ
 
実は私、この本持っているんですよね……。
 
哲学を専門的に勉強していたという訳ではないです。
ちょっと難しい本を読みかじりたくなる時期ってあるじゃないですか(笑)
いつか読みたいと思ったまま積んであったんです。
作中に実在する書籍の名前を出すということは、そこに意味があるということ。
そしてひとみ先生の愛読書はニーチェでした。
「銀薔薇」と「銀バラ」の関係を何か読みとれるかと思い、いい機会だし読むことにしたのですが、感想は……
 
よくわからん。
 
でした。超本音(笑)
おもしろいですよ。うん、おもしろいとは思う。
一文一文は理解できるのだけど、それが連なっていくと意味がわからなくなっていくのです。
ニーチェさん難解すぎる。
それでも調べたりしてにわかながらにもわかるようになった、かな……?
十分の一も理解できたかどうかわかりませんが、語っていきたいと思います。
 
ツァラトゥストラはかく語りき』といえば有名なのが、「超人」「永劫回帰」そして「神は死んだ」という言葉です。
言葉だけが独り歩きしていているこの言葉。
神とはもちろんキリスト教の神のこと。
ヨーロッパではキリスト教が絶対であり、その教え、価値観が常識であり絶対でした。
しかし科学の発展により、キリスト教の絶対性が失われてしまいました。
そのことを「神は死んだ」といったのです。
キリスト教が絶対ではなくなったということは、それに支配されていた価値観も死んだということです。
だからキリスト教が支配する全ての価値観・常識を越えて新しい道を切り開いていくことが大切である。
すごくおおざっぱにいうとこんな感じ。
聖樹くんの場合、「神」とは彼の生まれ育った世界である銀の薔薇騎士団の慣習や常識、もっというと銀の薔薇騎士団そのものでしょう。
聖樹くんが『ツァラトゥストラは書く語りき』を愛読しているというのは、薔薇騎士団を打倒するという方向で気持ちが固まっていることを表しているということだと思います。
 
これがね、鈴影さんだったら大問題なんですよ。
なにせニーチェは「神は死んだ」といい放ったアンチキリストですから、キリスト教系秘密結社の総帥としては立場的にまずい。
もちろん教養として読んでいたと思うし勉強はしていたと思うけど、それを愛読していると書かれてしまうとねえ、別の意味があることになる。
何があったレオンハルト!とバンドームさんに詰め寄られること必至。
「緋のチェイカー」のあとにそんな描写があったのなら、鈴影さんは新しい考え方を受け入れるようになったんだなあって感動してしまうんですけどね。
 
ココから本題。
 なぜ銀バラと銀薔薇は異なる形となったのか。
それは、現代日本に置いてとっくに「神は死んでいる」からです。
 
過激ですか 
えーっと、ここでいう神とはキリスト教を始めとした宗教の神ではなくて、「世間」とも「常識」ともいわれる物のこと、日本で一番大切にされる、「普通」といわれるものです。
日本は一神教の国ではありませんから、神の絶対さはピンとこないんですよね。
もし日本なら何に近いんだろうと考えた時に、世間体や常識のような共通認識だと思ったのです。
 
鈴影聖樹はある常識をテーマにしたキャラです。
それは「家のために生きる」。
ひとみ先生の作品の中には、同様のテーマを背負ったキャラが登場します。
マリナシリーズの美女丸やガイのお父さんがそうですよね。家の為に生きることを絶対の価値観としている。
長男は家を継ぎ、家を守り墓を守り生きるのが正しい生き方だ。
偏見かもしれませんが、ひとみ先生はそういう考え方が「普通」だった世代だったと思います。
わたしたち読者世代もぎりぎり理解できるんじゃないかな。
生まれ育った環境にもよりますけどね。
私なんかは田舎で育ったので「家と長男」という概念はわかります。
しかしその「普通」も時代と共に変わっていきます。
長女、長男は家を継がないといけないなんて、それは生き方を縛ることになる。時代遅れの常識・慣習だ。
銀バラの執筆された80年代は価値観が移り変わる過渡期で、「家のために生きるのが普通」鈴影さんVS「もっと自由に生きた方がいい」ユメミの価値観バトルが繰り広げられたわけです。
 
そして現在、「家と長男」という考え方は絶対のものではなくなり、「普通」というほど強制力のあるものではなくなりました。
そんな中で、25年前の「世間の常識と普通」でえがかれている鈴影聖樹は、今の少女たちにはまず理解されないだろうと判断し、聖樹くんとしたのだと思います。
 
しかし、それは本当でしょうか。
 
鈴影さんは当主になりたかったわけじゃない。
お父さんとお母さんの本当の子どもになりたかったんだ。
 
彼の奥底にあるのはそこなんですよね。
自分は親に嫌われてるんじゃないか、頑張らないと認めてくれない、受け入れてくれないんじゃないかと考えるのは思春期の普遍的な悩みの一つです。
今の十代とリアルで接する機会は少ないですが、少女たちのもつ独特の文法はそんなにかわってないんじゃないかな。
 
そういう部分がわかるのなら、決して時代遅れではないはずです。