手を繋いで。
「花火を観に行こう」
そう誘ったのは鈴影さんからだった。
いつもあたしは鈴影さんをいろんなことに誘っていた。
彼に人生を楽しむことを教えてあげたかったから。
考え方の幅を広げ、もっと幸せになってほしかったから。
そのたびにやんわりと断り拒否していた鈴影さん。
こうして一緒にいることができるようにはなったのだけど。
その言葉にあたしは不思議な感じがした……
きゃっ、時間だ!
急いで鏡の前でチェックをする。
淡いピンク色の浴衣に朱赤の帯、髪はまとめて撫子のかんざしで留めてある。
よし、完璧!
玄関をでると午後の気だるい日差しを浴びて鈴影さんが立っていた。
うちで待ち合わせしたんだからそれはいいんだけど、その格好をみて立ちすくんでしまった。
なんと、鈴影さんが浴衣を着ていたのよ!
清潔感のある紺色の生地で仕立てのいいものだった。
西洋の美を極めたような鈴影さんだけど、日本の着物も彼の凛とした佇まいによく合っている。
艶のある深緑の髪がさらりと流れ、品があって高潔で、武家の若様のような感じがして素敵だった。
ほんとなんでも似合うんだぁ……
思わず見惚れてしまった。
「おかしいかな」
そんなあたしの様子をみて、鈴影さんは照れたように笑った。
そこであたしはようやく我に返って、鈴影さんのもとへ駆け寄り、門を開け外に出た。
「そんなことないわ!すっごく似合ってる。ただ少しびっくりしちゃって……」
「君が浴衣で行くって言ったからね」
そりゃあ、あたしは浴衣って言ったわよ。
でも鈴影さんが浴衣なんて思わないじゃない!
しかしびっくりはこれだけじゃなかったの。
次の言葉がさらにあたしを驚かせたのだった。
「今日はね、車じゃなくてバスできたんだ」
バ、バス!!
鈴影さんといえば、いつも運転手さん付きの高そうなリムジンなのに、バス!
どうしちゃったの、暑さで頭がショートしちゃったの?!
二の句をつげないあたしをみて、鈴影さんは涼しげな黒い瞳に困惑した光を浮かべて問いかけた。
「そんなに驚く?」
驚くわよっ!
花火の誘いといい、浴衣といい、どうしちゃったの!?
今までとのあまりの変わりように、驚く、戸惑う、驚嘆するわよぉ……
「だって鈴影さん、今までこういうことなかったから……」
やっとのことで答えると、瞳を甘くきらめかせて、食いいるように見つめた。
「今日はね、君と同じ景色を見たいと思って誘ったんだ。
君が今までどのようなものを見て、どのように思うのか知りたい。
ユメミは前にオレにいったね、イベントをするのは生活を楽しむため、生きることを素敵なものにするためだって。それを一緒に感じてみたいんだ」
あたしをみる真っ直ぐな瞳と真摯な言葉に胸を打たれ、ただただ見つめかえすだけだった。
そんな風に思ってくれたんだ……
嬉しくて、少し泣きそうになって、それを隠すためにすこしうつむいた。
「さあ、行こう。もうすぐ時間だ!」
鈴影さんは明るく言ってあたしの顔を覗きこみ、それから軽やかに肩を抱いてくるりと方向を変えさせると、バス停に足を向けた。
あたしたちと同じ行き先ばかりなのだろう、車内は色とりどりの浴衣をきた人であふれていた。
一人掛けの席にあたしを座らせると、あたしの横に守るように立った。
バスはほどなく音をたてて走り出した。
夏の日差しと乗客の熱気で車内はむしむしと暑い。
クーラーは入っているようだけど、全く効いていなかった。
鈴影さんは手すりにつかまって、話しをしやすいように少し身をかがめてくれている。
いつも涼しげな鈴影さんだけど、流石に片眉を上げていった。
「バスって、暑いね。知らなかったよ。実はね、さっき君の家に行くときに初めて乗ったんだ」
思わず声を上げてしまった。
「初めて、って!乗りかた、わかりました!?」
すると彼は品の良い苦笑いを浮かべていった。
「ユメミ、経験と知識は違うんだよ」
ああ、そうよね。当たり前だわ……
いくらなんでもバスの乗りかたを知らないって、ない。
あたしはちょっと恥ずかしくなってふいっと前を向いた。
優しい苦笑いがあたたかい微笑みに変わるのを感じながら。
今まで一度もバスに乗ったことのないという鈴影さん。
あらためて、育ちの違い、みてきた景色の違いを思い知った。
流れる景色はいったん住宅街を抜け、大きな公園の隣にでた。
歩道には、天吾や人吾くらいの男の子たちが、わいわいと歩いていた。
「子どものころはよく両親と歩きにいったよ。ドイツでは午後のお茶の後に散歩にいくんだ、自然と新鮮な空気を楽しむためにね。結構遠くまで歩いて、母とオレは父の足取りを追うので精いっぱいだった。それでね……」
懐かしそうな声で、窓の向こうをみながら話す鈴影さんの瞳にはいつもの愁いはなく、ただ美しく輝いていた。
このごろ鈴影さんはよく昔の話をしてくれる。
まるで自分の全てをあたしに見せようとしてくれてるみたいに。
以前は自分の話なんてしなくて、聞いてもふっと話題を変えてしまっていた。
そんな鈴影さんの横顔を見上げ、ただうっとりと聴いていた。
あたしの知らない鈴影さん、それを知ることが嬉しくて。
「ユメミは?」
ゆっくりとこちらを向き、問いかける声に笑顔で答える。
きっと、あたしと同じ気持ち。
「あたしはね、パパとママとよくピクニックにいったわ。近くの公園なんだけど、緑が多くてね……」
興味深そうに笑んで聴いてくれる。
少しずつ、あたしたちの距離は近付いていく。
渋滞をしているのか、速度が落ち、のろのろと進んだ。
こもる熱気と閉塞感で、車内はしだいに静かになっていった。
かがんで立つ鈴影さん肩から音もなく艶やかな髪がこぼれおちて、あたしの頬をくすぐる。
彼のトレードマークともいえる美しい髪も近々切ってしまう。
それを思うと胸が痛んだ。
あたしのせい。
そんなことはないといってくれるし、そうも思うけど、どうしても胸が痛んでしまう。
鈴影さんに気がつかれないよう、窓を向いて、そっと唇をかんだ。
「ずいぶんゆっくりとしているんだね。こうしているのもいいよ。こんな風にじっくり外をみるなんてなかったから」
鈴影さんは、夕暮れの気配を滲ませた景色を眺めながら言った。
窓越しに目があった。
何気ない声と裏腹に気遣うような光がうかんでる。
これじゃ、いけない。
あたしはおちこんじゃいけないんだわ。
どうせクーラーきいてないんだからいいか!
こもる熱気と、閉塞感と、重苦しさをふりはらう為に、あたしはがたんとバスの窓をスライドさせて開けた。
同時にバスは少し走り出し、一陣の風があたしたちのあいだに吹いた。
爽やかな風に髪が揺らめく。
新鮮な空気にふうっと息をつく。
きっと大丈夫よ。
みてきた景色の違いも、距離も、かすかな胸の痛みも、きっと乗り越えられるわ。
苦しくなったりしたら、その時は今みたいに新しい風を吹かせればいい。
バスは停留所に着き、あたしたちは一番最後に降りた。
高い段差を軽々と降り、優雅なしぐさで掌を差し伸べる。
あたしはその手をとってバスを降り、そのままそっと握った。
鈴影さんの大きな掌があたしの手をぎゅっと包む。
……手を繋いで。
そして、あたしたちは歩き出す。