銀狼がおどる満月の夜 後編
どうする?!
オレは、とりあえず身を隠さなきゃと思って、ソファの下に伏せて座った。
後から考えたら余計なことをはしないで、保護された迷い犬の顔をしていれば普通に切りぬけられたと思うんだけど、動揺してしまって駄目だったんだ。
息を飲み、全神経をかたむけて外の音を聞いていた。
「あっ、パパ。ごめんなさい、夜中に電話を使って」
「電話?どうして応接間で?」
「お友だちと電話をするときは、疲れてるパパや眠りの浅い天吾を起こしたくなくていつもこうしてたの。
テスト勉強のわからないことを聞きたかったし、女の子同士だとどうしても長くなっちゃうのよね。
これからは気をつけるわ。
……ごめんなさい」
「まあ、電話はほどほどにね。早く寝なさいよ」
「はあい」
ガタガタと音がして、少ししてから静かになった。
ドアから細い光が差し込んできて、そこからユメミのささやくような声が聞こえた。
「もういいわよ」
オレは緊張しながら応接間を出て、急いでユメミの開けてくれたドアの隙間に身体を滑り込ませた。
ユメミは、両手でドアを閉めて、くるりとこちらを向いて大きく息をつきながらドアにもたれかかると、目を閉じて軽く仰いでからゆっくりとこちらに視線をあわせた。
目が合って、どちらからでもなく、オレ達は笑いあった。
緊張から解放されて、笑いださずにはいられなかったんだ。
「危なかったわね~!どうしようかと思っちゃった」
まるでいたずらに成功した子どものように楽しそうだった。
「すっげードキドキしたよな!」
って、オレもおんなじだ。
上手く切り抜けられたことを、ガキみたいに胸をドキドキさせてよろこんでる。
「しっかし、よくとっさにあんないい訳思いついたよな。ひょっとして、いつもやってんの?」
それならあんなに自然に口にだせたのもうなずける。
女って話が長いもんだし、家族に気を使ってこもって話すってのも、ユメミらしいと思ったんだ。
そうしたら、なんていったと思う?
「ぜんぶ嘘にきまってるじゃない。応接間で長電話なんてしないわよ。
ああいう風にいえば、パパのことだもん、それ以上詮索しないとわかっていったの」
って、何食わぬ顔でいいやがったんだぜ。
そうだよな、娘に家族のことを気遣いながら友だちと話していたなんていわれたら、信じちゃうよ。
男って女のことってよくわかんねーもんだから、そういうもんだと思っちゃう。
オレだって普通にそうだと思ったんだから、父親ならもっとだ。
「おまえ、悪知恵だけは働くよなあ……」
呆れながらも感心してつぶやくと、
「悪知恵じゃなくて臨機応変っていってちょうだい。主婦やってれば当然のことよ」
なんて得意げに答えるし。
主婦って、女って…… こええよっ!
内心震えるオレを横目みて、ユメミは床の上のグラマーの教科書と辞書を取り上げて、勉強机の椅子に座った。
そして身体を斜めにしてこちらを振り返った。
「あんたも一緒にする?」
「へ、何を?」
「テスト勉強にきまってんでしょ」
そうだった、さっきの騒動で忘れてた。
「ああ、やるやる。そうだ、オレが教えてやろうか」
そういってから、ユメミの隣にまわりこみ、勉強机のへりに前脚をかけ後ろ脚で立って、机の上をのぞきこんだ。
「おまえ英語喋れないだろ。おまえよりかはマシだと思うぜ」
「なによそのいいかた、失礼ね」
ユメミは頬を膨らませてオレを睨みつけた。でもまあ、それは事実ってことで、唇をとがらせながらも黙ってノートを開いてオレの前に押しやってきた。
へへ、ちょっといい気分。
かっちりとした文法は苦手だけど、基礎はわかってるからな。
額をあわせて、辞書はユメミにひいてもらいつつ教科書とノートを読み上げながらする勉強はとても楽しくて、あっというまに時間がたった。
ふと時計を見ると、けっこういい時間になっていた。
さっきの騒ぎがなければもっと早く取りかかってこんな時間にならなかったよな。
「オレ、家に電話するなんて思いもしなかった」
つぶやくようにいった。
ユメミはシャープペンシルを止めて、不思議そうに首をかしげた。
「どうして連絡しようと思いついたの」
オレは男だし、わざわざ断りをいれるなんて、恥ずかしいし、しなくていいと思ってた。
すると、やさしくのぞきこむようにオレの目をみたんだ。
「おばさまを安心させたかったの。
ただでさえあたしたち銀バラでムチャすることがあるからね、連絡できるときはしたほうがいいでしょ。
弟がいるからわかるけど、母親って子どもが思っているよりもずっと、心配するものなのよ」
ユメミの言葉には説得力がある。
オフクロもそうなのかなあ。
高校生にもなって、親のことで諭されるのは、なんだかこそばゆくて、照れくさかった。
「そういうもんなんだな。なんか、今日はいろいろと、ありがとよ」
泊めてくれたこと、気をまわしてくれたこと、気付かせてくれたこと。
照れて黙ると、ユメミはクスッと笑って、
「あはは。いいのいいの」
なんて茶化しながら、オレの首に両腕をまわして、抱くようにして頭を撫でた。
身体が密着して、やさしい掌が心地よくて、ドキッとする。
ユメミって、動物の姿になると人間だって忘れちゃうみたいで、急に警戒心がなくなって本物の動物を触るみたいになる。
アキなんか完璧に猫扱いで抱くんだもんな、完全に見た目でだまされてる。
今だって中身がオレだってことを忘れてるもん。狼どころか犬だと思ってる。
オレが人間で、男で、そんな風に触れられたらどう感じるかなんて考えもしない。
どうすることもできなくて、焦れそうになる。
とはいっても、それはこの姿だからなのであって……役得と思えるかどうかだよなあ。
そう思えば十分ラッキーだと思うし、ずうずうしくもなれるもんだ。
ほっぺたに頬を擦り寄せ、鼻先でふれる。
ユメミのほっぺたは柔らかくてあたたかかった。
「やだ、くすぐったい、くすぐったいってばっ!」
くすぐるつもりはなかったんだけど、ツボに入ったみたいでユメミはクスクスと笑いだした。
そのうちに笑い声は大きくなって、耐えられないといったように、腕を外して背もたれに大きくもたれた。
背もたれは弓なりにしなり、反りきったようにみえた。
おい、それ以上はあぶねえぞ!
いう間もなくユメミはひっくり返りそうになり、それをこらえようとしてもできなくて、もがきながら椅子ごとこちらに倒れてきたんだ!
ピアスの光の中で、倒れつつもユメミを受けとめて、それからもんどり打ちながらベッドのシーツを咥えてひっぱって、慌てて身体の上にかけた。
「おいユメミ!あぶねえだろ、気をつけろよ」
すっかり人間に戻ってから顔をだして、声を殺して怒鳴った。
「ごめ~ん、ヒロシ」
床の上に座り込んで、情けない顔をしてオレにあやまった。
ごめ~ん、じゃねえよ、まったく。
すっかり戻っちまったし……、変身も楽じゃないんだぜ。
「あはは。じゃあ、あたしも着替えてくるから」
むくれるオレに、空気を変えるように明るく告げて、ユメミは部屋を出ていった。
一人部屋に残されたオレは、急いで服に着替えはじめた。
ズボンに足を通してシャツのボタンを締めていくうちに、オレはだんだん冷静になっていき、自分が置かれている状況がわかってきた。
一晩同じ部屋で過ごすのは、まずい。
さっきうちに泊まっていけばいいじゃないと無防備にいったのは、オレが狼の姿だったからだ。
だからなにも意識しないで、オレを招き入れたんだ。
人間に戻ったオレは、まずい。
そりゃあさ、どうこうなる前に狼になるんだろうけど、それでもまずいよ。
幼なじみを越えてしまいたくなる。
そうしたらオレ達はどうなるのだろう。
それがちょっと、こわかった。
床には、シーツをひっぱったことで落ちた乱れたユメミの制服。
嫌でも意識せずにはいられなかった。
やっぱり、レオンちにいくか。
それが一番だな、うん。
この時間でも開いてるかな。どうにかなるだろ、きっと。
ユメミが来る前に部屋をでたほうがいい。
そう決めて、片手で靴を持ち、カーテンをあけようと手を伸ばしたその時に、ユメミが戻ってきたんだ。
「オレ、レオンちにいくから」
振り返らずにいった。
「なんで?急にどうしたの?泊まってけばいいじゃない」
ユメミは戸惑ったような声で引きとめた。なんでオレが出ていこうとしているのか、見当もつかない、まるでわからないといった感じだ。
目の前にいるオレはもう狼じゃないのに。
少し振りかえり、斜めにみて、浅く笑った。
「おまえさ、オレに泊まれって、どういう意味かわかってんの?」
深夜。
パジャマ姿。
二人きりの部屋。
あっ、と小さく息をのんで目をみひらき、ユメミはようやく自分がなにをいっているのかわかったようだった。
みるまに顔が赤くなっていく。
おせえよ、ばか。
「外に出れば自然と狼にもどる。そのまま行くよ。 服は明日の朝、とりにくるから」
たまらない気持ちになって、まっすぐに瞳をみつめながら、まるい肩に右腕を伸ばした。
指が届く前に止めた。ふれるつもりはなかったけど、ユメミの両肩はビクッと逃げるように震えた。
「オレはオオカミだからな、気をつけろよ」
指先を握りしめて腕をおろす。
背を向けて、今度こそ窓を開けて出ようとした時だった。
心臓が収縮して、息ができなくて、めまいがした。
変身だ!
そこでオレは七転八倒。
たとえじゃなくて、本当にしたんだぜ、七回戻って八回変身!
声もだせないし、苦しいのなんのって、死んじまうかと思った、ちっくしょうっ!
ようやくおさまったときは狼の姿で、息も絶え絶え、ぐったりと横になることしかできなかった。
「ねえ、ヒロシ、だいじょうぶ……?」
ユメミの声は心配げだったけど、顔には明らかに安堵の表情がうかんでいた。
まあ、そうだよな、オレ、おおかみ、だもんなあ……。
もういい、
もう、疲れたよ、オレ……。
「……オレ、このまま寝るわ」
そのまま力なくうずくまって、瞼の降りるままに、目を閉じた。
目覚めは胸を押し潰されるような圧迫感からだった。
いきなり息ができなくなって、もがきながら目が覚めたんだ。
カーテン越しにうっすらと明るい室内。
どうやら朝になり日が昇り始めたことで元にもどったらしい。
身体をおこして、ベッドをみると、ユメミはもういなかった。
起きて朝飯を作りにいってるんだろう。
みると、オレの身体の上にはシーツがかけてある。ベッドの上にはたたまれたオレの制服。
その上には1枚のメモ。
「おはよう。みつかんないようにね」
丸っこい字でそれだけ。
あいつらしい飾らない言葉がなんだかうれしい。
急いで着替えてそれをポケットにしまった。
外はまだうす暗く、東の空は白く染まっている。
すっかり明るくなってからでて、誰かにみられたらまずいしな、それこそシャレになんねーよ。
あたりを見渡して誰もいないことを確認してから部屋を出て、フェンスを跳び越えてオレんちの庭へ戻った。
芝生の上で伸びながら振りかえる。
昨日の夜はいろんなことがあったな。
いきなり変身しちゃって、満月に踊らされた一夜だった。
すっげー疲れたけど、でも今の気分は悪くなかった。
夜の途中、朝のなりかけ。
オレ達は……、オレの気持ちはこの空みたいだ。
今はどちらにも半端で、
でもきっと夜はあけて、明るくかがやくにちがいない。
そうだといい。
思いながら、オレはもう一度大きく、伸びをした。